肥前ヒゼン千葉チバ発給ハッキュウ文書モンジョ目録モクロク
凡例ハンレイ〕この目録モクロクは、作成者サクセイシャ平成ヘイセイ22ネン10ガツマツまでに蒐集シュウシュウた、肥前ヒゼン千葉氏チバシ歴代レキダイ当主トウシュ一部イチブ当主トウシュ以外イガイフクむ)の発給ハッキュウ文書モンジョを、編年ヘンネン一覧表イチランヒョウしたものである。基本的キホンテキにはタネヤス以降イコウ対象タイショウとしているが、それ以前イゼンムネタネタネサダらの文書モンジョについても、肥前ヒゼンクニ関係カンケイカギって採録サイロクした。なお、家臣カシン発給ハッキュウ文書モンジョ採録サイロクしていない。文書ブンショ蒐集シュウシュウサイし、小城オギ市立シリツ歴史レキシ資料館シリョウカン蒐集シュウシュウした史料シリョウデータを参考サンコウにさせていただいた。
文書名ブンショメイ原則ゲンソクとして書下カキクダシ書状ショジョウなど文書モンジョ様式ヨウシキモトにしており、必要ヒツヨウオモわれるものにカギってユズジョウ禁制キンゼイなど、内容ナイヨウモト名称メイショウけている。上申ジョウシン文書モンジョシンジョウ軍忠グンチュウジョウなど)に千葉氏チバシ外題ゲダイ・承判・袖判など書き込んでいる場合は、千葉氏を優先する形で名称を付け、( )内に上申文書の名称を記した。
年月日…無年号文書のうち、年次を比定していないものは、便宜上それぞれの発給者の終見史料の後に、月日順に掲載した。「元年」「正月」以外は数字に改め、干支は省略した(数字の表記は、他の項目でも同様に行う)。
差出サシダ…〈 〉ウチは、発給者ハッキュウシャ署名ショメイ花押カオウ位置イチシメす。上申ジョウシン文書モンジョ千葉氏チバシ外題ゲダイ・承判・袖判などを書き込んでいる場合、千葉氏の署名・花押を記した。
充所…文書に明確な充所がないものについては、本文の記述等から判明する(推定を含む)名称を( )内に記載した。上申文書の場合、その発給者を記した。
刊本…刊本の名称・巻数・文書番号または頁数を示す。「佐賀」は『佐賀県サガケン史料シリョウ集成シュウセイ 古文書コモンジョヘン』、「千葉チバ」は『千葉県チバケン歴史レキシ 資料編シリョウヘン中世チュウセイ』、「カマ」は『鎌倉カマクラ遺文イブン』、「ミナミキュウ」は『南北朝ナンボクチョウ遺文イブン 九州キュウシュウヘン』をリャクしている。
文書モンジョ 年月日ネンガッピ 西暦セイレキ 差出サシダ トコロ 内容ナイヨウ 出典シュッテン 刊本カンポン 備考ビコウ
1 千葉宗胤書下 弘安6年12月28日 1283 平朝臣(花押) (三間寺) 七条仁新郷山田里三十一坪1町の田畠を安堵する。 円通寺文書 佐賀5・215ペイジ 鎌20・15042ゴウ  
2 千葉宗胤書下写 正応5年3月3日 1292 平(花押影) 宗胤ト有リ 肥前国小城郡刑部阿闍梨所 牛尾院主琳海を、小城郡内甲乙人等が熊野山・彦山に参詣する時の先達とする。 武雄鍋島家文書「感状写」 『彦山編年史料古代中世篇』127 要検討。
3 千葉胤貞ヵ書下 徳治2年12月4日 1307 平(花押) (三間寺) 免田2町1段3丈と内記兵衛尉宗重給分内との相博を安堵する。 円通寺文書 佐賀5・216 鎌30・23103ゴウ  
4 千葉胤貞置文案 正中元年10月13日 1324 胤貞 (光勝寺) 胤貞の子孫に3ヵ条を申し置き、謗法を禁ずる。 光勝寺文書 佐賀5・222 鎌37・28924ゴウ 要検討。
5 千葉胤貞讓状 元徳3年9月4日 1331 平胤貞(花押) (大輔阿闍梨日祐) 下総国千田庄原郷阿弥陀堂職(中略)・肥前国小城郡光勝寺職・同妙見座主職・同乙犬名等を永代に譲与する。 中山法華経寺文書 千葉2・1112 鎌40・31506ゴウ  
6 千葉胤貞讓状 元徳3年9月4日 1331 平胤貞(花押) (大輔阿闍梨日祐) 下総国千田庄原(中略)・肥前国小城郡光勝寺職・妙見座主職・乙犬名田1町・在家1宇を譲与する。 中山法華経寺文書 千葉2・1112 鎌40・31507ゴウ  
7 千葉胤貞讓状 元徳3年9月4日 1331 平胤貞(花押) (大輔阿闍梨日祐) 下総国八幡庄内中山[  ]免を譲与する。 光勝寺文書 佐賀5・222 鎌40・31508ゴウ  
8 千葉胤貞讓状案 建武元年12月1日 1334 胤貞判 (嫡子孫太郎胤平) 肥前国小城郡・下総国千田・八幡両庄内知行分の惣領職を永代に譲与する。 中山法華経寺文書 千葉2・1113 南九1・176ゴウ  
9 千葉胤貞書状 12月19日   平胤貞上(花押) 進上 中山殿御返事 鞘巻を贈られたのを謝し、この代田地5丁を平吉四郎太郎に申し付ける旨を伝える。 頂妙寺文書 千葉5・266  
10 千葉高胤書状 8月13日   平高胤上(花押) 進上 中山殿 小城郡東方内高胤手所内田地5町・在家を寄進する。 中山法華経寺文書 千葉2・1133  
11 (田中行祐申状)千葉胤泰安堵外題 建武4年4月日 1337 〈袖〉平(花押) 田中ヒコナナ入道ニュウドウ行祐 小城郡砥河内得久名田地1町5段余・屋敷・畠地小地頭職、太郎丸四郎畠地4段を安堵する。 実相院文書 佐賀1・272 南九1・924ゴウ  
12 千葉胤泰・某連署書下 建武4年5月7日 1337 平朝臣(花押)・平朝臣(花押) (河上社座主増恵) 河上社座主増恵と宮師定範の相論につき、小城郡田地2町を増恵が領掌するよう裁許する。 河上神社文書 佐賀1・238 南九1・930ゴウ  
13 千葉胤泰書下 建武4年7月21日 1337 平(花押) (田中ヒコシチ入道ニュウドウ) 小城郡内田地5町地頭職を行う。 実相院文書 佐賀1・274 南九1・993ゴウ  
14 千葉胤泰書下 暦応3年正月18日 1340 平胤泰(花押) (河上社) 法華経料免小城郡内田地4町を寄進する。 河上神社文書 佐賀1・241 南九2・1472ゴウ  
15 千葉胤泰書下 暦応4年正月10日 1341 胤泰(花押) 河上座主御房 祈祷料足として小城郡田地5町を寄進する。 河上神社文書 佐賀1・242 南九2・1624ゴウ  
16 千葉胤泰請文 暦応4年5月15日 1341 平胤泰(裏花押) (幕府) (小城郡)晴気保地頭職につき、宗像氏重の当知行と、それを妨げる者は存じない旨を報告する。 宗像大社文書 『宗像大社文書』1・275 南九2・1666ゴウ  
17 千葉胤朝書下 暦応5年3月17日 1342 平胤朝(花押) (河上社) (小城郡)船田里三十坪1町・高楊里八坪1町1丈の免田を返付する。 河上神社文書 佐賀1・242 南九2・1755ゴウ  
18 千葉胤朝書下 康永2年2月22日 1343 平(花押) 田中彦七入道殿 小城郡砥河保内東方楽仏苑畠地の半分を行い、半分は御手所として年貢以下を無沙汰しないよう命じる。 実相院文書 佐賀1・274 南九2・1896ゴウ 奥に沙弥某安堵外題。
19 (今村利広軍忠状)千葉胤泰承判 観応2年□月3日 1351 〈奥〉承了(花押) 今村孫三郎利広 今年八月の所々における今村利広の軍忠を承認する。 南里今村文書 南九3・3290ゴウ  
20 千葉胤泰書下 正平20年8月22日 1365 平胤泰(花押) 益田大夫殿 小城郡砥川保内乙犬名田地(三間寺智運東堂跡)を光勝院料所として定め置く。 頂妙寺文書 千葉5・266 南九4・4583ゴウ  
21 千葉胤連讓状 応安2年8月18日 1369 千葉前常陸介平胤連(花押) (舎弟宗杲上座) 筑前国宗像東郷内曲村地頭職・公文職を譲与する。 出光佐三氏奉納文書 『宗像大社文書』2・90 南九4・4788ゴウ  
22 千葉胤泰書状写 (嘉慶2年)4月3日 1388 平胤泰 進上 御奉行所 肥前国段別銭につき、河上社社家の訴えにより幕府の沙汰を請う。 鍋島家文庫「河上宮古文書」 佐賀2・336 南九6・6425ゴウ  
23 千葉某書下写 応永6年6月1日 1399 平判 当寺(玉林寺)長老 鎰尼季高寄進の(佐嘉郡)国分村内田地2町を安堵する。 玉林寺文書 佐賀5・261  
24 千葉胤泰書下写 応永8年7月8日 1401 平胤泰判 当寺(玉林寺)長老 鎰尼季高寄進の肥前国内所々を安堵する。 玉林寺文書 佐賀5・261  
25 千葉胤泰書状 9月3日   平胤泰(花押) 進上 中山殿御坊 御時料として山崎郷内田地5丁(手所内)を寄進する。 中山法華経寺文書 千葉2・1133  
26 千葉某書下写 応永9年10月28日 1402 平朝臣判 玉林寺長老玉回和尚 鎰尼季高寄進の佐嘉郡朽井内当寺(玉林寺)敷地・高木庄内田地6町・巨勢庄小太郎丸名内田地2町・香田内田地5町等を安堵する。 玉林寺文書 佐賀5・261  
27 千葉某書下 応永10年10月29日 1403 平(花押) (河上社) 鎰尼季高寄進の免田を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・249  
28 (田中季秀申状)千葉某袖判 応永11年2月日 1404 〈袖〉(花押) 田中季秀 (小城郡)徳久名(同本給晴気保の内)・納所八坪1町・畠地(字大塚次屋敷等)を安堵する。 実相院文書 佐賀1・294  
29 千葉某書下写 応永12年12月19日 1405 平判 (河上社) 佐嘉郡神野仏性田30町を安堵する。 鍋島家文庫「河上宮古文書」 佐賀2・342  
30 千葉胤基書下写 応永23年9月18日 1416 平判 千葉胤基 (河上社) 佐嘉郡の免田所を安堵する。 鍋島家文庫「河上宮古文書」 佐賀2・342  
31 千葉胤繁書下 応永34年3月10日 1427 平(花押) 於保因幡守殿 佐嘉郡於保の地頭分を安堵する。 多久家文書 佐賀10・19  
32 千葉胤繁書状 7月25日   胤繁(花押) 於保因幡守殿 某所の事につき、本領であるが人に与えた旨を伝える。 多久家文書 佐賀10・16  
33 千葉某書下 永享4年4月20日 1432 平(花押) 於保因幡守殿 佐嘉郡の内於保因幡守本領を安堵する。 多久家文書 佐賀10・18  
34 千葉某袖判伊予介某書下 永享5年閏7月4日 1433 〈袖〉(花押) 〈日下〉伊与介(花押) (河上社) 佐嘉郡国分寺の内田地10町を寄進する。 河上神社文書 佐賀1・221  
35 千葉某書下 永享5年8月6日 1433 平(花押) (河上社) 佐嘉郡の免田高木の内神野村30町・国分寺の内平尾20町を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・221  
36 千葉某書下案 永享5年8月6日 1433 平御判 (武雄社) (前欠)20町を安堵する。 武雄神社文書 佐賀2・187  
37 千葉胤紹書状写 (永享8〜10年)12月7日   胤紹(花押影) 有浦殿 肥前への出陣を知らせ、奔走を求める。 有浦家文書「有浦家文書写」 佐賀20・25  
38 千葉胤紹書下 永享11年3月27日 1439 平(花押) 於保因幡守殿 佐嘉郡の内本領当知行を安堵する。 多久家文書 佐賀10・15  
39 千葉胤紹書下 嘉吉3年2月11日 1443 平(花押) 河上山座主坊 佐嘉郡高木内神野村仏性田30町を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・222  
40 千葉胤紹書下 文安元年4月14日 1444 平胤紹(花押) (河上社) 佐嘉郡の内平尾村20町・中河村6町を重ねて寄進する。 河上神社文書 佐賀1・222  
41 千葉元胤書下 長禄3年11月6日 1459 平元胤(花押) 橘家中村播磨守殿 杵島郡長島庄橘家領の内本知行分所々を安堵する。 橘中村文書 佐賀18・79  
42 千葉元胤書状 8月11日   元胤(花押) (橘中村氏) 愁訴につき、本知行分を安堵する。 橘中村文書 佐賀18・110  
43 千葉某書下写 文明7年5月27日 1475 平判 庄若狭守殿 小城郡晴気庄居屋敷分2町・同所下地7段3丈・同堺畠二の内1町3段・同囲屋分1町を行う。 小城鍋島家文庫「御家中古書佐嘉指出覚」 佐賀26・117  
44 千葉胤盛書状 (〜文明7年)9月18日   胤盛(花押) 渋江薩摩守殿 (杵島郡)北方の事につき、本知行を安堵する旨を伝える。 小鹿島文書 佐賀17・262  
45 千葉胤盛書下 文明8年2月3日 1476 平胤盛(花押) 河上山座主御坊 兵部少輔、(佐嘉郡)神野仏性料田に違乱を致すにより、末代まで高木名字の使用を禁じる。 河上神社文書 佐賀1・223  
46 千葉胤朝書下案 文明10年11月15日 1478 平胤朝御判 (武雄社) 佐嘉郡平尾村20町・高木の内神野村仏性田30町を安堵する。 武雄神社文書 佐賀2・187  
47 千葉某書下写 文明11年4月13日 1479 平(花押影) 今河新二郎殿 名字(今河)の使用を認める。 小城鍋島家文庫「御家中古書佐嘉指出覚」 佐賀26・48 花押影から発給ハッキュウ比定ヒテイできず。
48 千葉胤盛書下 文明12年6月19日 1480 胤盛(花押) 河上山後座主宰将公殿 佐嘉郡の内山田30町を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・224  
49 千葉胤朝書下 文明12年6月19日 1480 胤朝(花押) 河上山後座主宰将公殿 佐嘉郡の内山田30町を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・224  
50 千葉胤朝書状 6月13日   胤朝(花押) 実相院進覧之候 (佐嘉郡)中河の事につき、判形を与える旨を伝える。 実相院文書 佐賀1・298  
51 千葉胤朝書状 9月2日   千葉介胤朝(花押) 謹上大友殿 祝儀の使者を謝し、太刀1腰・馬1疋を贈る。 大友家文書 『大分県史料』26・488号  
52 千葉胤盛書下写 文明18年4月5日 1486 平胤盛(花押影) 河上山実相院 佐嘉郡の内神野30町・平尾20町・中河1所を安堵する。 鍋島家文庫「川上古文書」 佐賀2・345  
53 千葉胤資書状 7月17日   胤資(花押) 河上山実相院 松浦での弓矢につき、祈祷の目録を謝し、いよいよの祈念を頼む。 河上神社文書 佐賀1・225  
54 千葉胤盛書下 明応6年正月23日 1497 平胤盛(花押) 河上山唯真坊律師 河上社座主職・往古神領(佐嘉郡)神野30余町・中河12町・平尾20町・其外国中社領・増与律師当知行分を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・225  
55 千葉興常禁制 明応6年3月27日 1497 平興常(花押) (河上社) 当手軍勢甲乙人等の濫妨狼藉を禁じる。 河上神社文書 佐賀1・203  
56 千葉興常書下写 明応10年9月11日 1501 平(花押影) 吉積因幡守とのへ 佐嘉郡の内惣座の山口を安堵する。 筑前町村書上帳 『筑前町村書上帳』152  
57 千葉興常書下 永正2年3月16日 1505 平(花押) 龍造寺隠岐入道殿 佐嘉郡川副下庄袋の内瑞応寺1所を安堵する。 龍造寺家文書 佐賀3・61  
58 千葉某書下写 永正3年11月28日 1506 平判 副嶋彦十郎殿 佐嘉郡の内宰院・坪上・妙善売地3ヶ所を安堵する。 武雄鍋島家文書「感状写」    
59 千葉胤繁書下写 永正4年6月14日 1507 平胤繁 持永大蔵丞殿進之候 旧今河領の小城郡大楊・乙牟礼24町を返付する。 小城鍋島家文庫「御家中古書佐嘉指出覚」 佐賀26・47  
60 千葉胤繁書状 6月6日   胤繁(花押) 龍造寺右衛門大夫殿 祇園会社役につき、大草野弥六左衛門尉の申す旨を承知した由を受け、これを賞す。 龍造寺家文書 佐賀3・61  
61 千葉胤繁書状写 8月21日   胤繁(花押影) 龍造寺刑部左衛門殿 鮒を贈られたのを謝す。 武雄鍋島家文書「感状写」    
62 千葉興常書下 永正10年12月15日 1513 平興常(花押) 中村主馬允殿 杵島郡山口80町の内浪打今里25町を安堵する。 橘中村文書 佐賀18・95  
63 千葉胤勝名字状 永正11年3月15日 1514 平胤勝(花押) 龍造寺新次郎殿 胤久の実名を与える。 龍造寺家文書 佐賀3・63  
64 千葉興常書下 永正11年8月10日 1514 平興常(花押) 中村三河守殿 杵島郡小田の内樋口分13町・同小田の内7町を安堵する。 橘中村文書 佐賀18・96  
65 千葉興常書下写 永正11年10月21日 1514 平興常判 河上山座主大納言殿 河上社座主職・神領を安堵し、大鳥居の内における狼藉を禁じる。 鍋島家文庫「河上宮古文書」 佐賀2・347  
66 千葉興常書下 永正11年11月2日 1514 平興常(花押) 中村三河守殿 杵島郡樋口分18町・大村分の内2町を安堵する。 橘中村文書 佐賀18・96  
67 千葉胤勝官途挙状 永正18年正月11日 1521 平胤勝(花押) 龍造寺新次郎殿 民部太輔の官途を推挙する。 龍造寺家文書 佐賀3・63  
68 千葉興常書下写 大永3年3月(日欠) 1523 平興常在判 南陽院進覧 杵島郡の内水尻分24町を寄進する。 光勝寺文書 佐賀5・227  
69 千葉興常書下 大永4年3月28日 1524 平(花押) 龍造寺民部太輔殿 佐嘉郡尻田分60町・千数30町・小城郡大寺36町・別府120町(岩部分20町を除く)・佐嘉郡大宝40町・□(千ヵ)住12町・諸富12町を安堵する。 龍造寺家文書 佐賀3・64  
70 千葉興常書下写 大永5年3月2日 1525 平興常在判 南陽院進覧 小城郡内清水西谷36町・同塔中免9町5段を新寄進し、本御寺領安藤分5町・5ヶ所を安堵する。 光勝寺文書 佐賀5・227  
71 千葉胤勝書下写 大永6年9月24日 1526 胤勝 三浦右衛門大夫殿 佐嘉郡の内寄人75町・豊益29町を安堵する。 小城鍋島家文庫「御家中古書佐嘉指出覚」 佐賀26・107  
72 千葉興常書下 永亀2年正月16日 1527 平興常(花押) 龍造寺民部太輔殿 小城郡内光武分18町・佐嘉郡内下嘉世100町・有重12町・法成寺16町・永田左馬允下地領知を安堵する。 龍造寺家文書 佐賀3・62 永亀2ネンは大永7年にあたる。
73 千葉胤勝書下写 大永7年(月日欠) 1527 平胤勝 瑞梅寺 小城郡栄泉寺ならびに免田を安堵する。 筑前国続風土記 『筑前国続風土記』491頁 太宰管内志にも写あり。
74 千葉胤勝書下 享禄3年7月15日 1530 胤勝(花押) 龍造寺民部太輔殿 佐嘉郡の内与賀庄1000町6郷を安堵する。 龍造寺家文書 佐賀3・64  
75 千葉興常書状 (享禄4年)閏5月20日 1531 興常(花押) 龍造寺民部太輔殿 走りなどの覚悟を賞す。 龍造寺家文書 佐賀3・62  
76 千葉胤勝書下 享禄5年2月25日 1532 胤勝(花押) 南里但馬守殿 小城郡の内福田分1町5段・江口分2町5段を安堵する。 南里今村文書    
77 千葉胤勝書状 (享禄5年)2月25日 1532 胤勝(花押) 南里但馬守殿 (小城郡)荻野55町(大聖寺千年分3町を副え)の内3分の1を安堵する。 南里今村文書    
78 千葉胤勝書下 享禄5年2月25日 1532 胤勝(花押) 南里但馬守殿 小城郡の内垂井分19町・金原分15町・友田12丁・長門分10町を安堵する。 南里今村文書    
79 千葉胤勝書状 (天文2年)4月25日 1533 胤勝(花押) 南里但馬守殿 (小城郡ヵ)宇佐分を、社家衆と和合して知行するよう命じる。 南里今村文書    
80 千葉胤勝書下写 天文2年7月10日 1533 胤勝(花押影) 竹崎山平井坊 佐嘉郡の内来迎寺寺家分8町を安堵する。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
81 千葉興常・胤勝連署書下 天文2年10月17日 1533 平興常(花押)・平胤勝(花押) 河上山実相院 佐嘉郡河上山座主職・社領を安堵する。 河上神社文書 佐賀1・206  
82 千葉興常・胤勝連署禁制 天文3年2月15日 1534 平興常(花押)・平胤勝(花押) 川上山実相院 当手軍勢甲乙人等の濫妨狼藉を禁じる。 河上神社文書 佐賀1・207  
83 千葉興常書下 天文5年3月5日 1536 平興常(花押) 後藤殿 杵島郡内山口80町・小城郡内原分24町を安堵する。 武雄鍋島家文書 佐賀6・8  
84 千葉興常書下 天文5年6月12日 1536 平(花押) 武雄式部少輔殿 小城郡内名和分7町を安堵する。 武雄神社文書 佐賀2・189  
85 千葉興常書下写 天文6年正月23日 1537 平興常(花押影) 平井坊 佐嘉郡内来迎寺住持職・同寺領16町を安堵する。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
86 千葉興常書下写 天文6  2月19日 1537 平(花押影) 平井坊 小城郡内晴気保報恩寺住持職・寺領3町を安堵する。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
87 平(千葉チバヵ)犬若丸施行状写 天文11年9月26日 1542 平犬若丸判 玉林寺侍者禅師 玉林寺を勅願所とする綸旨を施行する。 玉林寺文書 佐賀5・263  
88 千葉興常・胤勝連署書下写 天文12年10月17日 1543 平興常判・平胤勝判 河上山実相院 佐嘉郡河上山座主職・社領を安堵する。 鍋島家文庫「河上宮古文書」 佐賀2・352 80の誤写か。
89 千葉興常書状 4月3日   興常(花押) 河上まいる御報 音信を謝し、こちらは勝利眼前である旨を伝える。 実相院文書 佐賀1・298  
90 千葉興常書状ウツシ 4月11日   興常判 龍造寺右衛門大夫殿 佐嘉郡内西山田・切目・鍋島・中何(阿ヵ)分・上平野分・小刀武・瀬戸分・奈良田分・今山・大願寺・成道寺分・常陸給・飯篠分・妙法院分の14箇所は、於保の内であるが去り渡すとの由を伝える。 多久家文書「肥陽旧章録」    
91 千葉興常書状 7月20日   興常(花押) 唯心院尊報 興常当介(千葉介)につき、河上山の事は当座主の心に任せる旨を伝える。 実相院文書 佐賀1・299  
92 千葉興常書状 8月27日   興常(花押) 座主御坊御同宿中 大内方近日下向により、肥前国の躰が替われば本意に任すであろうと伝える。 実相院文書 佐賀1・300  
93 千葉興常書状 10月17日   興常(花押) 実相院尊報 祈祷の目録を謝し、当手の進発を伝え、寺家に疎意を存じない旨を約す。 実相院文書 佐賀1・300  
94 千葉興常書状 11月7日   興常(花押) 鎰尼与三兵衛尉殿 三河守の事につき、来春早々に出頭して相談するよう命じる。 橘中村文書 佐賀18・112  
95 千葉胤勝書状写 2月16日   胤勝(花押影) 竹崎山平井坊 入郡祝儀の舟の到来、および五明・抹茶・紙を贈られたのを謝し、扇1本を与える。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
96 千葉胤勝書状写 3月13日   胤勝(花押影) 竹崎山平井坊 鎰山肥後守への書札、および10袋(茶ヵ)を贈られたのを謝す。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
97 千葉胤勝書状写 4月23日   胤勝(花押影) 竹崎山平井坊 境舟の到来、および茶20袋を贈られたのを謝す。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
98 千葉胤勝書状 10月17日   胤勝(花押) 河上山実相院 祈念の目録・鳥目100疋を謝す。 実相院文書 佐賀1・303  
99 千葉胤勝書状 10月20日   胤勝(花押) 深河主馬亮殿・音無新五郎殿・南里但馬守殿寄合御中 防州衆渡海につき、馳走を命じる。 南里今村文書    
100 千葉胤勝書状写 11月22日   胤勝(花押影) 竹崎山平井坊 筑後へ人を遣わすにつき、小船の手配を依頼する。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
101 千葉胤勝書状写 11月27日   胤勝 竹崎山平井坊 此面に在留につき、鎰山肥後守への懇札を謝す。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
102 千葉胤勝書状 12月3日   胤勝(花押) 南里但馬守殿 (筑前国)早良郡入部村在留の旨を伝え、来春は弓矢必定につき、馳走を命じる。 南里今村文書    
103 千葉胤頼書状写 天文13年4月16日 1544 平胤頼判 太陽山玉林禅寺侍者禅師 勅願所として毎度の口能につき、無沙汰しない旨を伝える。 玉林寺文書 佐賀5・263  
104 千葉胤連書下写 天文16年5月9日 1547 胤連(花押影) 竹崎山平井坊 佐嘉郡の内来迎寺1所16町を安堵する。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
105 千葉胤連書下 天文18年6月21日 1549 胤連(花押) 杠主馬允殿 小城郡栗並山の内両門を安堵する。 杠家文書 佐賀17・116  
106 千葉胤頼書下 天文19年6月1日 1550 平胤頼(花押) 武蔵殿 佐嘉郡奈良田の内実相寺5丁・縄手末5町・江口ヶ里の内1町を安堵する。 杠家文書 佐賀17・117  
107 千葉胤頼書下写 天文19年7月12日 1550 平判 胤頼之判也 副嶋彦十郎殿 佐賀郡の内副嶋弥七郎一跡を安堵する。 武雄鍋島家文書「感状写」    
108 千葉胤頼書下 天文22年10月13日 1553 平胤頼(花押) (光勝寺) 小城郡久遠寿寺敷地2町を永代に守護不入とする旨を安堵する。 光勝寺文書 佐賀5・228  
109 千葉胤連袖判岩部常久奉書 天文22年10月28日 1553 〈袖〉(花押) 〈日下〉岩部兵部太輔 常久(花押) 松尾山光勝寺御衆分中 小城郡内町神田ヶ里三十五坪木分免1町・同ヶ里河窪分1町・佐保里ヶ里一二坪宇佐分2町を久遠寿寺敷地として安堵する。 光勝寺文書 佐賀5・228  
110 千葉胤連書状写 5月16日   胤連判 尾藤ビトウ太兵衛尉とのへ 発足につき忠節を命じる。 武雄鍋島家文書「感状写」    
111 千葉胤連書状 8月1日   胤連(花押) 河上山実相院 南呂の慶詞として太刀1腰・馬1匹を給わったのを謝し、太刀1帯・馬1疋を贈る。 河上神社文書 佐賀1・237  
112 千葉胤連書状 12月24日   胤連(花押) 横岳殿 歳暮の慶詞を謝す。 横岳家文書 佐賀6・262 『西国武士団関係史料集』23・89  
113 千葉胤頼書状写 (永禄元年)正月27日 1558 胤頼判 福満寺 今春の慶詞を謝し、増元へのいよいよの心寄せを頼む。 福満寺所蔵「長尾山年譜」 大園隆二郎「長尾山年譜一・二」(『肥前史研究』)569  
114 千葉胤頼書状写 3月14日   胤頼(花押影) (神通院) 祈祷の目録を贈られたのを謝す。 武雄鍋島家文書「感状写」    
115 千葉胤頼書状写 5月2日   胤頼(花押影) 竹崎山平井坊 今年の祝儀音問、ならびに1種を贈られたのを謝す。 江藤正澄所蔵「平井坊文書」    
116 千葉胤頼書状 9月4日   胤頼(花押) 日秀まいる 脚気の病状を尋ね、早々の快気を望む。 杠家文書 佐賀17・118  
117 千葉胤頼書状写 9月21日   胤頼(花押影) 佐保藤太左衛門尉殿・藤瀬神兵衛尉殿・松木大隅守殿・安冨山耆中 此度の弓矢での心懸を賞し、いよいよの忠節を命じる。 武雄鍋島家文書「感状写」    
118 千葉胤政書状 9月11日   胤政(花押) 杠左馬太夫殿 長良の入部につき、粉骨を求める。 杠家文書 佐賀17・120  
119 千葉胤誠書状 6月23日   胤誠(花押) 杠左衛門太夫殿 家良の名代に定められたことを祝す。 杠家文書 佐賀17・118  
120 千葉胤誠書状 8月11日   胤誠(花押) 杠左衛門太夫殿 岩屋城亡落のトキなど頻繁な出陣を慰労し、無事の帰陣を祝す。 杠家文書 佐賀17・119  
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