山本家日記にみる幕末維新期の時代(1)             伊藤 昭弘

 山本家日記は、嘉永7年(安政元年、1854)から遺っている。この年は、前年江戸近海に出現したアメリカ・ペリー艦隊が再び来航し、近世日本の「鎖国」政策の終わりを告げる日米和親条約が締結された年である。ただ日記には、ペリー来航や条約締結に関する記述はない。日記の著者山本卯之吉が知らなかったのか、書かなかっただけなのかはわからない。卯之吉および彼の家族、さらには在所の山代郷や伊万里周辺において、日本の外交環境の劇的変化がもたらした影響についても窺えない。

 日記に記載された事柄のなかで、卯之吉らの生活に上記の変化が直接関わることとしては、安政6年の「安政改鋳」が初見である。「改鋳」とは当時の貨幣である金・銀・銭の質や量を改めることである。有名な荻原重秀が実施した「元禄改鋳」をはじめ、江戸時代幾度となく実施された。

 安政6年日記・8月3日の条には、老中太田備後守が発した触達が写されている。小判(1両)、1分判(1/4両)、2朱銀(1/8両)を新たに鋳造すること、以前の天保小判などは通用停止にすること、といった改鋳関係の触達とともに、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国と神奈川・長崎・箱館において交易が許されたことが記されている。

 安政改鋳の背景を説明すると、当時の日本では、金1両=4分だったが、1歩判は銀で作られていた(1分銀と呼ばれる)。アメリカやイギリスは、金や銀を重量で比較し、交換するべきだと主張した。重量で比較すると、およそ1ドル銀貨=1分銀3枚となった。当時国際的には、金と銀の交換比率(重量)はおよそ1:15だった。一方前述のように日本国内では金1両=4分(1分銀4枚)とされていたため、金銀の交換比率はおよそ1:4.6とされた。日本は海外と比べ、「金安・銀高」だったのである。そのため例えば金1キロを国外で銀15キロに交換して日本に持ち込めば、およそ3キロの金と交換できた。そのため多くの外国人が日本の金を海外へ持ち出し、国内は金不足に悩まされた。

 幕府はこの状況を変えるために、安政改鋳を実施した。このとき発行した新2朱銀は、含まれる銀の重さだけで比較すれば、2枚でそれまでの1分銀3枚と同じだった。銀の価値を大幅に低下させ、国際基準にあわせたのである。しかし諸外国の反発を受け、新貨の発行はわずか3ヶ月ほどで中止された。このような、金銀交換に関する改鋳の背景を、卯之吉はじめ山代郷の人々は知っていただろうか。ひょっとすれば、長崎から情報を得ていたかもしれないが、日記には単に触達を写しているだけである。

 翌安政7年(万延元年)日記2月19日の条には、「安政改鋳」に続いて実施された「万延改鋳」に関する触達がある。この改鋳では、やはり金銀の交換比率を国際基準にあわせるために金貨の質が大幅に引き下げられ(金属としての「金」の価値は上昇)、ハイパーインフレを起こした。卯之吉たちの生活にも、大きな影響を与えたことだろう。同年の日記4月18日の条には、佐賀藩郡方が出した触達がある。物価上昇のため人々が「難渋」していると警告するが、その対策としては、「高利」を求める商売を慎めという、商人の良心に期待するものでしかなかった。