山本家日記にみる幕末維新期の時代(2) 伊藤 昭弘
明治4年(1871) 7月14日、明治政府はそれまでの「藩」を廃止して中央との結び付きが深い「県」を置く、いわゆる「廃藩置県」を断行した。これにより、とりあえず各「藩」がそのまま「県」とされ、小城藩は小城県となった。
この頃の山本家の様子を、「山本家日記」からみてみよう。当然ながら7月14日発表された廃藩置県が、直ちに伊万里山代郷まで届くわけはない。また、発表から半月たった8月16日には、立岩村の庄屋代蔵が提出した交代願について話し合っており、行政組織など従来通りのままだったようである。
8月21日には、浦之崎番所が廃止された。恐らく廃藩置県を受けてのものだろう。番所役人加藤道助が小城に帰るとの知らせをうけ、日記の著者山本卯之吉(この頃は「源左衛門」、以下源左衛門とする)は「塩小鯛拾尾」を進上している。さらに9月28日、小城県大参事中島与四助(由助)らが東分村庄屋権六宅まで出張し、庄屋・村役・横目・散使など従来の村方役人を廃止し、村ごとに「組長」を置く旨を発表した。翌日源左衛門は「久原御役場」へ出向くと、組長に任命する旨の「切紙」を受け取った。その「切紙」には「村役」に任ずる旨が記されており、源左衛門は当初「組長」としていたが、「切紙」には「村役」とされていた。ただその後も源左衛門は「組長」の呼称を使うときがあり、正式名称ははっきりしない。10月16日には、元庄屋の代蔵から「村方御本帳」など村政関係の帳簿や道具類を受け取り、「組長」「村役」としてスタートした。村政以外のところでは、これまで小城藩から交付されていた酒造免札(許可証)を、「天朝」(政府)から受け取るための手続が執られている。これも廃藩置県ゆえのことだろう。
11月5日、山代郷内各村の「村役」が集まり、「御蔵納米拵方」に関する政府からの「御布告」について相談している。このような、各村代表の合議は藩政時代から行われていたのだろうか。翌日源左衛門は立岩村の村人を集め、「御布告」を伝達し、同22日、立岩村を含む「西ノ谷四ヶ村」の「御蔵納」を完了した。
12月以降の「村役」としての活動は、「山本家日記」には余り詳しくない。しかし別に「村役」としての日記を遺しており(以下、「村役日記」)、それによれば、源左衛門は戸籍(立岩村村民と他村民との婚姻による住民の出入りなど)や租税関係などの職務を毎日のようにこなしていたようである。また翌明治5年1月4日には、「村役」としての給与を年米6石9斗に定める旨の通達が届いた。
明治5年1月10日、「村方初集会」が催された。藩政時代には、村の予算から「酒肴」が振る舞われていたが、廃藩置県により村予算の主な財源である「貫物方」が廃止されたらしい。そのため「頭百姓」20人が「自分より」酒肴を賄ったという。藩政時代にも「村方初集会」は催され、藩からの通達に対する対応などを話し合ったようだが、明治5年の集会でも、村の祭礼・普請・諸負担などについて話し合われている。
山本家の生活は、「組長」「村役」に指名された源左衛門が多忙にはなったが、基本的には廃藩置県後も大きな変化は無い。「村役」の職務も藩政時代の庄屋と大きな変化はまだ無いようで、郷内他村の「村役」との横のつながりや、立岩村民との話し合いを通し、円滑にすすめていたようである。
そうなると、山本家にとっては、「何故源左衛門が「村役」に任命されたのか」という点が大きな問題である。何故従来の庄屋ほか村役人ではなく、(村政には関わっていたが)無役であった源左衛門が選ばれたのであろうか。他村でも村役人以外から選ばれたのか、村役人云々にかかわらず有能な人物が選ばれたのか。廃藩置県直後の小城県の地域行政を考える上でも、重要なテーマであろう。