「攘夷」決行と佐賀藩(2)               伊藤 昭弘
 「攘夷」決行をめぐる佐賀藩の動きを検討する前に、まず京都を中心とした当時の政治動向をみておきたい。
 文久3年(1863)3月4日、14代将軍徳川家茂は、「攘夷」について朝廷と協議するために上洛(京都へ上ること)した。当時幕府は、朝廷の「攘夷」要求に対して態度を明確にしていなかったが、家茂が入った当時の京都は尊王攘夷派の支配下にあり、将軍・幕府は朝廷を中心とした尊王攘夷派勢力から圧力を受けることとなる。
 尊王攘夷派の圧力に抗しきれず、4月20日、ついに家茂は5月10日を「攘夷」期日とする旨を約束してしまう。翌21日には武家伝奏(朝廷と幕府・諸藩間の連絡役)から在京諸藩の留守居に伝えられ、佐賀の地には5月1日に報じられている(「直正公年譜地取」 『佐賀県近世史料』第1編第11巻)。前回紹介した書簡の作者には、この情報が伝わっていたのであろう。
 ただし、「攘夷」の内実については様々な見解があった。一般的には、「攘夷」=武力による外国勢力の追放、というイメージがある。しかし当時、特に幕府内部においては、外国と結んだ条約の破棄(の交渉)や、開港していた長崎・横浜・函館の鎖港(の交渉)も「攘夷」の一環と認識されていた。
 当時の政治状況をみると、(武力行使という意味での)「攘夷」を主張した積極「攘夷」派(朝廷・長州藩など)、無闇な武力行使を回避する途を探る消極「攘夷」派(幕府の一部)、「攘夷」そのものに対する反対派(幕府・諸藩の一部)、以上3つの勢力があったようである。特に幕府は、京都の将軍家茂とその周辺は積極「攘夷」派に圧倒されていたが、江戸に残った官僚層は消極的か反対の立場を採っていた。
 4月27日、幕府は長崎・横浜・函館を30日以内に封鎖し、諸外国がそれに従わない場合には武力を行使すると決定した。この決定に拠る限りでは、5月10日に、武力による「攘夷」を決行する理由は無くなったことになる。ただ封鎖交渉は5月10日を過ぎても開始されなかった。そもそも幕府内部には、鎖港交渉にすら反対する「攘夷」反対派が、実際に諸外国と交渉する実務官僚層に多く見受けられ、朝廷からの圧力に抗しきれない一橋慶喜(将軍家茂の代理として、「攘夷」決行を指揮する立場にあった)らと対立しており、具体的な「攘夷」行動を起こせなかった。
 こうしてみると、佐賀藩が「攘夷」を決行しなかったのは、幕府の意向に沿った行動をとったに過ぎない、ということになる。事実幕府は、唯一「攘夷」を決行した長州藩の独断専行を批判した。しかし一方で朝廷は長州藩の行動を激賞し、決行しなかった幕府や諸藩を責めている。佐賀藩は、過激な「攘夷」を唱える朝廷と、穏健な「攘夷」(もしくは、「攘夷」そのものの否定)の途を模索する幕府との間で、どのような方針をもって5月10日を迎えたのであろうか。
(続)

参考文献
奈良勝司「奉勅攘夷体制下における徳川将軍家の動向−文久3年将軍上洛後の性格規定をめぐる相克−」(『日本史研究』507、2004)