「攘夷」決行と佐賀藩(4) 伊藤昭弘
前回述べたように、『鍋島直正公伝』(以下『公伝』)は、文久3年2月に開始された生麦事件をめぐる日英交渉に関する記述が目立つ。『公伝』の著者久米邦武は、文久2年から江戸に滞在し、元治元年4月まで昌平坂学問所に通っていた。前回、『公伝』の内容を批判的に見る必要性を述べたが、この時期の『公伝』の記述については、歴史学者としての久米の見解というだけでなく、青年藩士・学者としての実体験に基づいたものと考えると、筆者は非常に説得力を感じる。
しかしこれまでの幕末佐賀藩研究、特に文久3年前後については、京都を中心とした政局において如何に佐賀藩及び藩主鍋島直正が活動したか、という点が注目されてきたため、日英交渉を佐賀藩がどう捉えていたか、という点についてはほとんど検討されていない。
『公伝』によれば、文久3年2月27日、京都所司代牧野備前守より諸大名へ、以下の通達が出された。
・・・生麦事件の交渉において、英国は3ヶ条の要求を出してきた。しかしそれらはとても受け入れられないので、「兵端を開」く(開戦する)可能性がある、よって諸大名は、それぞれの備えを厳にするように・・・
この達を受けた鍋島直正(京都に滞在中)は、長崎警備の「手当」のため、ただちに重臣中野数馬を帰国させた。また直正は、朝廷と幕府・諸大名の取り次ぎを勤める「伝奏衆」へ、長崎警備を理由に帰国を願い出ている。この点について、これまでの佐賀藩研究では厳しい評価がされていることが多いようである。例えば藤野保編『続佐賀藩の総合研究』第5章第1節第2項「幕末政局における佐賀藩の動向」(毛利敏彦氏執筆)では、朝廷から難題(攘夷)を背負わされるのを警戒していた直正は、所司代の達を受けて「渡りに舟とばかり」帰国を申し出、「京都政局の泥沼から足を抜」いた、とされている。早く京都を離れたい直正にとって、長崎警備は口実に過ぎなかった、という理解であろう(注1)。しかし、前回紹介した佐賀藩士中嶋善九郎の書簡に描かれたような、江戸・横浜の緊張状態を考慮すると、日英間の緊迫化は戦争の危機感を惹起し、長崎の安全を担う佐賀藩にとっても大変な重大事だったのではないか。この点、後に論じたい。
『公伝』によれば、直正の帰国願いは28日に聞き届けられ、翌29日に直正は帰国の途についた。ちょうど佐賀藩の軍艦電流丸・観光丸が大坂に来ており、3月1日、大坂より直正は電流丸に乗って帰国した。また3月には、佐野栄寿左衛門(常民)や「からくり儀右衛門」として有名な田中儀右衛門らによって汽船の製造が開始されるが、『公伝』は上記のような緊迫した情勢を鑑みて、汽船製造の「裁可」を出した、としている。
『公伝』は、砲台建設など長崎防衛体制構築を進める佐賀藩の姿を描く一方、「応戦の設備なき長崎市中は砲弾雨下の中に曝さるべきを覚悟せざるべからず」と、英艦による長崎市街攻撃の可能性に触れ、当時の緊迫した状況を強調している。ただ、『公伝』の性格を考慮すれば、これらの点についても(筆者自身は説得力を感じているが)、一次史料(後年作成されたものではない、その当時に作成された書類など)に基づく分析が必要である。
(続)
(注1)直正は2月8日から京都に滞在したが、14日の参内を病気を理由に辞退するなど、「攘夷」の流れに関わることを避けていた、という見方が従来の研究ではなされている。