「攘夷」決行と佐賀藩(5)                 伊藤昭弘


 旧佐賀藩主鍋島家に伝来した史料群『鍋島家文庫』(佐賀県立図書館寄託)には、文久3年の「内密書付并(ならびに)聞合書」(以下、「内密書」)という史料がある。これは、佐賀藩が入手したさまざまな情報を書き留めた史料である。

 内容をみると、江戸・京都・長崎の情勢を知らせる情報がほとんどである。情報の収集者(佐賀への送信者)は、多くが「下目付」「郡目付」「御徒目付」となっている。また、時折「下目付」と「郡目付」の両者には「深堀詰」と注記されている場合があり、長崎の情報は、佐賀藩領深堀や佐賀藩長崎屋敷を拠点として両「目付」が収集したことは間違いない。「御徒目付」は江戸で情報収集していたとみられる。ただ、内容的には江戸や横浜に関する情報(日本と英国の交渉内容など)でも、「下目付」「郡目付」が収集しているものがあり、両「目付」は、江戸・長崎2ヶ所に分かれて情報収集していたとみられる。また、収集者が明記されていない情報も多い。

 日英交渉に関する情報は、日付が明記されているものでは3月7日が初見である。その情報には、

@英国は島津久光及び一類の「首級」を求めているが、幕府の「御威勢」が「薄」いため実現できないと判断し、代わりに幕府より50万ドル(日本の貨幣で金30万両)、被害者家族の養育費として島津家に30万両を要求

A今月8日までに幕府の回答が無ければ、大坂・箱館・長崎で日本船を攻撃し、江戸周辺を「焼払」う

 以上2点を英国が幕府へ突きつけた、と記されている。実際の英国の要求は

ア 幕府より10万ポンド支払い

イ 犯人の裁判、処刑

ウ 薩摩藩より被害者家族らへ2万5千ポンド支払い

 以上3点だった。また英国は、幕府の回答期限を3月8日とし、要求が受諾されなかった場合には軍事行動の開始を明言していたという。佐賀藩が得た情報は、全く正確という訳ではない。しかし、長崎を預かる佐賀藩の立場からすれば、英国の要求の中身が何であれ、幕府がそれを拒絶した場合には長崎においても軍事行動が行われるという情報が、何より重要だったであろう。

 日英交渉のゆくえは、長崎が戦争に巻き込まれる可能性が浮上した以上、佐賀藩にとって大きな関心事となった。3月8日の回答期限は延長され、「内密書」にもその旨が記されているが、とりあえずの危機が回避された後も、佐賀藩はさまざまな情報を入手している。

 例えば3月付(日付なし)の情報(収集者明記なし)によれば、3月4日午後英人「リユスエル」を訪ねたところ、公使付士官「ユウスデン」が来ており、両人より英国軍船の来港スケジュールや「戦士」の人数などを聴取している。また英艦隊の「惣督」「クウベ」(クーパー)について、好戦的な人物である(「戦を好」)という評価を伝えているほか、「インコンタ」(エンカウンター)の「船将」「デイフ」についても、28歳の「弱年」ながら「数度之戦場」を経験した「猛烈」な軍人であること、それを裏付けるエピソード(酒宴中に誤って兵士の足を撃ってしまったが、それを見ながら大笑いしたことなど)を記している。「リユスエル」や「ユウスデン」がこれらの情報をどういうつもりで語ったのか(単に、脅かしたかったのかもしれない)わからないが、情報収集者にとっては、日英開戦の可能性をさぐるうえで不安なエピソードだったかもしれない。

 次回も、引き続き「内密書」を検討し、日英交渉をめぐる佐賀藩の動きをみていくこととしたい。


                              (続)