「攘夷」決行と佐賀藩(6)                 伊藤昭弘

 前回に引き続き、「内密書」に記された、佐賀藩が収集した情報についてみていきたい。3月付(日付なし)の「風説」(情報収集者は「深堀詰」下目付・郡目付)には

@英艦隊の横浜来港と3ヶ条の要求提示により戦争の可能性が出てきたため、佐賀藩は両島(伊王島と神ノ島か)に「数百人」を派兵(「出勢」)した。すると長崎在留の外国人たちは非常にこれを恐れて出島へ避難したり、在長崎の英領事は軍艦より小銃を携えた兵を数人領事館へ移すなど、一時緊迫した状況となった。
A 米・露・蘭は戦争となっても英には与しない(「合体不罷在」)。
B 福岡藩の「出勢」は無く、長崎奉行所も当初はいつもと変わらなった。しかし奉行所も戦争を示唆するような達を出すようになり、長崎市中は次第に騒がしくなってきた。仏人が帯刀の者に襲撃される事件も発生している。

との内容が記されており、日英開戦の可能性にいち早く対応した佐賀藩の動きが長崎市中の動揺を誘ってしまったこと、一方佐賀藩と交代で長崎警備を担当する福岡藩、及び長崎の行政を預かる長崎奉行所の反応が鈍かったことがわかる。佐賀藩の対応が迅速だったのは、前回触れたような江戸(横浜)での情報収集の故だろうか。また開戦となってもあくまで日英2国間の問題であることも、佐賀藩は掴んでいた。
 3月下旬に横浜から報じられたとみられる情報(収集者不明)には、幕府が英に対し、4月4、5日頃に戦争覚悟で「手切」を宣告するらしいという、佐賀藩にとって衝撃的な内容が記されていた。また、この頃英軍艦が長崎に停泊し、長崎市中には「英が市中を襲う」との風評が流れ、英領事モリソンが3月25日に、英軍艦停泊の目的はあくまで同国人の保護である旨の声明を出している(「内密書」記載)。ただこの声明には、「英に敵対しない限りは攻撃しない」と記されており、日英交渉が決裂した場合、もしくは例えば尊皇攘夷の浪士たちが英国人を襲う(「内密書」には、長崎での外国人襲撃情報がいくつかみられる)、という事態が起きた場合に、直ちに英軍艦は軍事行動を執る、との含みを持たせている。うがった見方をすると、モリソンの声明は、侵略者が当初その意志を隠蔽するためのレトリックにもみえる。
 3月28日付綾部三左衛門(役職など不明)の「長崎風説書」には、「亜人フルヘツキ」から入手した情報が記されている。「フルヘツキ」とは、安政6年(1859)に来日し、大隈重信や副島種臣など佐賀藩士たちに英語を教えたり、勝海舟や西郷隆盛など幕末維新期の傑物たちとも交流していたとされるグイド・フルベッキのことであろう。フルベッキは主に上海発の情報を綾部に伝えている。それによれば

C英公使が上海を出発する際に米領事へ語った話では、横浜(神奈川)での日英交渉が決裂した場合、手みやげ無しに帰還することはできないが、日本と「手切」する考えも無い。恐らく琉球を占領し、奪還に来るであろう薩摩軍を攻撃することで生麦事件の報復とし、さらに琉球返還の代償として薩摩藩より「金子」を得るつもりとのことである。
D今回の英の動きは本国国王の指示ではなく、アジア近辺を管轄する「アトミラル」(提督)単独の判断である。また英は、中国での「長毛賊」(太平天国)との戦いによりアジアでの兵力が不足しており、とても日本と戦争できる状況ではない。

 これまでの日英交渉史の研究成果に拠れば、例えばCの「アトミラル」の単独判断、といった点は事実とは異なるようである(英の要求3ヶ条は本国外相の指示)。ただCにおける、英による薩摩藩への報復(琉球占領云々の真実性は別として)を予見している点、Dにおける、太平天国の乱による英の兵力不足、といった情報は、的確なものだったといえる。フルベッキの情報に拠る限りでは、日英開戦(薩・英の開戦は別として)の可能性は非常に低い、との判断も可能だっただろう。
 「長崎風説書」には、フルベッキ以外から得た情報も記されている。

E上海在留の仏公使が@の情報を得て驚き、貿易に「迷惑」が及ばないよう「和睦」を画策するために神奈川へ来た(仏領事からの情報)。
F3月24日、長崎奉行所は米ほか5ヶ国(英含む)の領事を呼び、日英開戦の可能性を示唆して長崎在留外国人の退去を申し入れた。それに対し仏領事は、仏公使の「和親」(和睦)交渉に言及したうえで日本が英に賠償金を支払うよう求めた(「何程かドル差し出さるる道はこれ有り間敷哉」)が、長崎奉行(大久保豊後守)はあくまで開戦も辞さないと強弁した。しかしその後、英以外の領事へ奉行から、英領事の居る場ではあえて強硬姿勢をとった、と内々に伝えてきた(フルベッキ宅にて、「蘭人」からの情報)。

 綾部は仏領事ともパイプがあったのだろうか、同国の日英間調停工作情報を入手している。またFで、長崎奉行も開戦を想定した準備をすすめてたことがわかる。ただ英領事には強硬姿勢を取っているが、他国領事に内々に伝えてきたところから推測すると、それはあくまでポーズであり、できれば開戦回避の意向だったことが窺える。
 これらの情報をみると、開戦の可能性はあるものの、それはかなり低い、とみることもできる。しかし前述のように、一方では江戸(横浜)から日英の「手切」が近いという観測が届いたり、現実に英軍艦が長崎港内に停泊している状況(さらに読みようによっては非常に高圧的なモリソンの声明)といったように、開戦に関する判断は非常に難しい状況にあった。 

               (続)

※参考文献 鵜飼政志『幕末維新期の外交と貿易』(校倉書房、2002年)