「攘夷」決行と佐賀藩(7) 伊藤昭弘
前回みたように、佐賀藩はさまざまな情報を収集していたが、それらは日英関係のゆくえについて和戦両様の可能性を報じていた。かつ長崎では、港に英国人の保護を理由に英軍艦が停泊したほか、市中には尊皇攘夷の浪士たちが潜伏し、散発的ではあるが外国人襲撃の情報も寄せられており、例えば英国人が襲われた場合など、突発的な紛争が起きかねない状況だった。それでは佐賀藩は、こうした状況に対してどのように対応していたのだろうか。
前(第4回)に述べたように、鍋島直正は文久3年2月29日に京都から帰国の途に着き、3月3日に豊前大里(現福岡県北九州市)に上陸、10日に佐賀に到着した。直正帰国後の佐賀藩について、目立った動きは『公伝』には記されていない。第4回で触れた、蒸気船製造の開始くらいだろうか。『公伝』は、長崎奉行(−幕府)からの指示が無かったことをその理由としている(この年の長崎警備は福岡藩の担当)が、前回までの情報収集がこの頃積極的に行われていたことを考えると、佐賀藩はまず状況を把握した後、対応策を執ろうとした、とも考えられる。
『公伝』によれば、直正は4月1日に佐賀を発ち、諌早で長崎奉行の達書に接する。それは「神奈川に英軍艦が来港したので、当番の福岡藩・非番の佐賀藩で申し合わせ、警備体制を整えよ」という内容であった。実際には同様の命を既に京都で受けていたが、ようやく長崎奉行も含め、警備体制の構築に着手できる状況となった。4日に長崎に着いた直正は長崎奉行と面会後佐賀藩邸(大黒町、現在のJR長崎駅付近)に入り、伊王島の大砲を移設して「内港」の警備を厳重にするよう命じ、蒸気船にて有明海を航海し、佐賀へ戻った。その後移設作業に入り、80ポンド砲6門、36ポンド砲14門、24ポンド砲4門、12ポンド砲4門、「二百目の野戦銃」4挺を、佐賀藩邸と稲佐海岸に設置した。
この移設について、筆者は以下の点に留意したい。文化5年(1808)に発生したフェートン号事件(注)以後、佐賀・福岡両藩は女神、神埼、高鉾、魚見台といった場所に砲台を建設した。これらは何れも長崎港の入口に位置する(現在の、「女神大橋」の外側)。さらに嘉永3〜6年(1850〜53)には長崎港外の神ノ島・四郎島・伊王島に砲台を設けた。
一見してわかるように、従前の長崎警備の方針は「敵船(入港未許可船)の長崎港侵入阻止」であった。しかし、旧台場にも若干は大砲を残したようだが、それでも文久3年4月の大砲移設は、それまでの長崎警備方針を事実上放棄したに等しい。実際長崎港内に英軍艦が入り込んでいる(前回参照)ことを考えれば現実的な措置だが、大きな方針転換である。
この点『公伝』は、「因循して既に十年の星霜を移したる長崎内港の防禦改良問題は、遂に劇烈攘夷論と英艦の示威とに迫られて、漸く解決せらるるに至り、即ち遂に我藩の伊王島を廃して長崎市の警備を速成することゝなりたり」とする。「長崎内港の防禦改良問題」とは、次の通りである。
佐賀藩は、フェートン号事件以降の方針を堅持するには「外目」警備の一層の強化が必要だと弘化3年(1846)より主張し、伊王島・神ノ島砲台建設に結果する。しかし『公伝』によれば、当初幕府は「内目を厳備」する方針だったという。嘉永5年(1852)に佐賀藩が幕府へ提出したとみられる意見書には、「内目御模様替」(湾内警備強化)については、既に嘉永3年から福岡藩と協議に入った、とあり、「外目」強化と平行して、「内目」強化も計画された。しかし佐賀藩は「内目」強化にも積極的だったようだが、福岡藩との協議は進展せず、嘉永6年のペリー来航を受けて一時再燃したものの、「内目」強化は結局放置された。
先の『公伝』の記述は、佐賀藩の主張を当初容易に受け入れず「内目」強化を主張した幕府への皮肉なのだろうか。しかしながら、英軍艦が既に侵入している状況ではやむを得なかったのかもしれないが、結果的に「外目」強化構想も、日英開戦とういう現実的な危機の前では何の役にも立たず、佐賀藩は自ら立てた方針を修正することとなった。
といっても、筆者は佐賀藩を「見通しが甘い」などと批判するつもりではない。「軍事」が直面する「現実」は刻々と変化し、その対応は非常に難しいことの一例であり、逆に巨費を投じて建設した伊王島砲台を、佐賀藩は状況に応じて迅速に撤去を決定した(投下したコストに固執し対応が遅れる、といったことが無かった)、との評価も可能だろう。
(続)
※参考文献 木原溥幸『幕末期佐賀藩の藩政史研究』(九州大学出版会、1997年)
※注:イギリス館フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ商館員を拉致した事件。長崎奉行松平康英は責任を取って切腹し、佐賀藩主鍋島斉直も、長崎警備を怠ったとの理由で100日の閉門処分を下された。ほか、佐賀藩の家老なども切腹している。