「攘夷」決行と佐賀藩(8) 伊藤昭弘
鍋島直正の藩政改革を支えた吏僚のひとりに、鍋島市佑(夏雲)がいる。彼は天保2年(1831)御側(主に、鍋島家の家政を担当)年寄に就任後、特別会計(藩主家会計)である懸硯方を財源とした軍事増強策などに深く関わった。特に、安政6年(1859)8月、天保期以来の藩政改革の中心人物であった請役(藩政の中心)鍋島安房の罷免後、請役相談役中野数馬・側頭原田小四郎とともに、藩政を主導した人物である。
市佑に関わる史料は『鍋島家文庫』に何点か残されているが、その中で「鍋島夏雲日記」(以下「日記」)に注目し、特に文久3年5月10日直前の記述を検討したい。
「日記」によれば、日英交渉について、4月20日までは依然として決裂=開戦の緊張感を高める情報が佐賀に届いている。しかし同23日以降は、一転して楽観的な情報が届くようになり、長崎警備の厳戒態勢を解くことまで、佐賀藩首脳部では議論されるようになった。先行研究によれば、4月21日、江戸城において水戸藩主徳川慶篤(将軍名代)、尾張藩主徳川茂徳、老中などの評議が開かれ、イギリスへの償金支払を決定した。ただ4月下旬の段階では、この情報は佐賀には届いていない。佐賀藩は、主にイギリス人(と関わった通訳など)から入手した情報により、日英交渉妥結の見通しを立てていた。佐賀藩は日英交渉について、その成否はイギリス側の態度次第であると認識していた。
そして5月2日には、福岡藩が既に通常の警備体制へ戻したことなどを理由に、佐賀藩も長崎警備の縮小を決定した。しかし同日、京都から情報が届いた。それは武家伝奏坊城俊克から諸藩への達(攘夷決行期限を5月10日とする)であり、佐賀藩の対応は一変し、長崎警備縮小を中止したようである。
5月3日、4日と攘夷をめぐる情報が相次ぎ、緊迫度はさらに増したとみられる。そのような情勢下、佐賀藩首脳部は、大坂・江戸の防備が不充分であることを理由に、攘夷決行の危険性を朝廷に対して建言するべきか議論したが、結局は情勢を変えるのは難しいとの判断に基づき、見送っている。続く5月7、8日には、一橋慶喜の帰府(攘夷決行のため)情報などが届き、攘夷決行に向けた流れが加速していると、佐賀藩は判断しただろう。
「日記」の記述は、9日以降大きく変わる。特に10日、鍋島市佑は「痰」を理由に出仕を控え、その後ほぼ五月中は出仕しなかったようで、攘夷や藩政に関する記述も皆無である。また鍋島直正の動向をまとめた年譜類にも、直正及び佐賀藩の目立った動きは記されていない。ただ、「年譜地取」10(『佐賀県近世史料』第1編第11巻)には、5月11日に「川副筋御鷹野」とあり、表向きは鷹狩りだが、長崎の動向次第で、直正は三重津海軍所より出動するつもりだったのかもしれない。
以上「日記」の分析から、佐賀藩は4月末頃には日英交渉妥結の見通しを立て、5月2日にはいったん長崎警備縮小を決定したこと、しかし同日、攘夷期限決定の情報が届き、縮小方針を翻し、そのまま攘夷期限まで緊迫状況が続いたこと、が判明した。また佐賀藩は現状での攘夷実行を危険視し、朝廷への建言を議論したものの、情勢に逆らうことは出来なかった。
しかし周知のように、長崎で攘夷(武力行使)は決行されていないが、その理由は「日記」をみる限りではわからない。鍋島市佑の出仕回避をみると、佐賀藩首脳部は攘夷期限を目前に機能停止していたのではないか、という感すらある。この点、次に検討したい。
※参考文献
木原溥幸『幕末期佐賀藩の藩政史研究』(九州大学出版会、1997年)
奈良勝司「奉勅攘夷体制下における徳川将軍家の動向−文久3年将軍上洛後の性格規定をめぐる相克−」(『日本史研究』507、2004年)