「攘夷」決行と佐賀藩(9)               伊藤昭弘


 なぜ佐賀藩は、攘夷を決行しなかったのか。『公伝』は、「朝廷や幕府から長崎で攘夷を実行しろ、という命令が無かったからだ」とする。さらに、攘夷決行は、あくまで長州・土佐・肥後などの「激徒」が、三條実美や姉小路公知など攘夷積極派の公家たちを「慫慂」した結果であり、「朝廷の本意」ではなかったとし、佐賀藩の態度を正当化する。しかし筆者には、「内密書」や「日記」をみる限り、佐賀藩も攘夷の気運に飲み込まれ、態度を明確にし得ないまま、5月10日の期限に至ったようにみえる。

 また、第1回で取り上げた香焼島詰佐賀藩士の書状によれば、5月10日を攘夷決行期限とする旨は、長崎の佐賀藩邸において周知されていた。しかし京都から「飛脚」が着いた後、特に何の命令も出されなかった、という。この書簡はあくまで香焼詰のいち藩士が入手した情報をベースにしており、実態を正確に反映しているとはいえないが、当時、長崎(とその周辺)に駐留した佐賀藩士たちに、開戦の危険性が認識されていたことは興味深い。そうした状況下、佐賀藩は5月10日をどのように迎えたのだろうか。

 「内密書」をみると、期限前日の9日の段階で、長崎には次の3通りの通達が在京・在府の幕閣より届いていたことがわかる。

・即刻、鎖港交渉を横浜・長崎・箱館で開始すべし(4月21日発令、在京幕閣)

・イギリスに償金を支払った後、鎖港交渉を開始する(同22日発令、在府幕閣)

・長崎・箱館は鎖港交渉を行わず、横浜に一元化する(同26日発令、在府幕閣)

 まず、将軍が攘夷期限5月10日を決定した直後、在京老中水野忠精が4月21日発した通達を、長崎は非公式に入手していた。「非公式」としたのは、実際にはこの通達は長崎には届かず、その内容のみが、何らかの手段で知らされていたからである。この通達が公式に届かなかったのは、26日発令の在府老中松平信義の通達により、その内容が否定されたためである。

 水野の通達は、長崎でも即刻諸外国と鎖港の交渉に入るよう命じていたが、松平信義のそれは、鎖港交渉は横浜で行い、長崎と箱館はその推移を見守るよう、指示していた。また在府幕閣は、22日には既に生麦事件の償金支払と鎖港交渉の開始を決定し、諸藩に通告していた。在京幕閣がより鎖港に積極的であり、それに対し在府幕閣は、慎重に鎖港(交渉)を進めようとしていたことがわかる。長崎奉行・佐賀藩邸は、在京・在府幕閣のあいだで意思統一が図れていないと感じており、そうした状況のなかで、長崎は在府幕閣の指示に従うべきだ、との判断を下した。

 すなわち、本稿のもともとの問題関心であった「文久3年5月10日に、何故佐賀藩は攘夷を決行しなかったのか」という点については、「佐賀藩は幕府の鎖港路線に従ったため」であり、かつ鎖港交渉については、佐賀藩は在府幕閣の指示に従った、ということになる。ただ「日記」の内容からすると、佐賀藩首脳部の判断というより、在長崎の佐賀藩邸と長崎奉行所・福岡藩邸の三者が情報交換しつつ、下した判断と考えられる。

 こうして5月10日には、長崎では何も起きなかった。しかし周知の通り、関門海峡において長州藩が攘夷を決行し、以後の佐賀藩に、大きく影響することとなる。