「攘夷」決行と佐賀藩(補遺) 伊藤 昭弘
昨年度、計10回にわたり、「「攘夷」決行と佐賀藩」と題して文久3年における佐賀藩の動向を分析し、さらに加筆を加えて、当センターの研究紀要2号に「文久三年の佐賀藩」と題して発表することができた。
「文久三年の佐賀藩」発表とほぼ時を同じくして、佐賀県立図書館より、『佐賀県近世史料第5編第1巻 幕末伊東次兵衛出張日記』が刊行された。小宮睦之氏の解題によれば、伊東次兵衛は請役相談役など佐賀藩の要職を歴任した人物で、彼の遺した日記は、「激動の佐賀藩の動き」に関する多彩な情報を記した、幕末佐賀藩研究にとってたいへん重要な史料である。このような、佐賀藩研究者のみならず、近世史・幕末維新史研究に携わる研究者にとって貴重な史料集が刊行されたことを喜び、佐賀県立図書館の刊行担当の皆さまに感謝したい。
今回は「補遺」として、「出張日記」の記述をもとに、文久3年の佐賀藩について、追加説明をしたい。「「攘夷」決行と佐賀藩」第10回で、文久3年7月に、佐賀藩は朝廷の武家伝奏へ、横浜・箱館・長崎の鎖港(「三港鎖港」)を訴える意見書を提出したことに触れた。「出張日記」によれば、実は伊東次兵衛(このときは「外記」を名乗る)が、武家伝奏へ意見書を提出する使者としての重要な任務を務めていた。
7月15日、佐賀城三の丸へ呼び出された伊東は、意見書提出のため、急ぎ出発するよう命じられた。ただこの旅は、表向きは「大坂での資金調達のため」としており、佐賀藩は内密に、意見書提出をすすめていたことがわかる。諸外国に対する即時武力行使を主張するような、強硬的攘夷勢力からの妨害を恐れたのだろうか。16日、伊東は藩主鍋島直大、及び隠居ではあるが実質佐賀藩を指導していた直正と対面し、指示を受けている。
京都には、7月26日に到着し、早速武家伝奏野々宮定功へ面談を申し入れた。野々宮との面談は29日に実現し、三港鎖港について具申し、野々宮は「至極御尤」と答えたという。その後、8月8日伊東は再び野々宮のもとを訪れ、「別紙」を差し上げた。それには、「三港鎖港に関する直大の意見が「叡慮」(天皇の意志)に叶い、「関東」(幕府)へ達するとのこと、大変ありがたいことである」と記されていた。佐賀藩−伊東のなかでは、三港鎖港推進が朝廷で採用され、幕府に命じられる、との認識が出来上がっていたことになる。
もちろん、朝廷が三港鎖港の推進を決定する過程において、佐賀藩の意見書が実際にどれほどの影響を及ぼしたのか判断するには、さらに細かな検討を行う必要がある。例えば伊東は、鍋島家と縁戚関係にあった中院通富(養母が直正の叔母)・久世通X(母が直正の叔母、夫人が直正の姉)と面会しており、何らかの斡旋を依頼した可能性があるが、そもそも筆者は、当該期の朝廷において両人が如何ほどの政治力を有していたのかも分かっていないので、今後の課題である。
以上、「出張日記」から、これまでの筆者の研究と関わる部分を紹介した。むろん、このほかにも、「出張日記」には貴重な情報が豊富に記されており、今後の佐賀藩研究の進展に、大きく寄与することは疑いのないところである。筆者も、今後「出張日記」の分析及びその他の佐賀藩士の日記類の調査をすすめていきたい。