佐賀県洋学者人名データベースの構想                青木歳幸


 まず、報告者が作成に関わった国立歴史民俗博物館「地域蘭学者門人人名」データベースについて紹介し、

1)現存する蘭学塾門人帳からのべ9351人を抄出しデータベース化したことにより、全国に少なくとも1万人以上の蘭学修業者がいたことが数量的にあきらかになったこと、

2)佐賀県域でも、門人をのべ186人を抄出することができたこと、

3)残存する門人帳は実際の蘭学塾の10分の1にも満たないので、複数の塾に学んだ蘭学者の数をさしひいても、佐賀県域だけで、数百人の蘭学学習者を推定できること、

4)これらの大半が事績の知られていなかった蘭学者であり、従来の蘭学研究が、頂点的蘭学者研究や藩史料等に依拠しており、地域蘭学像を十分反映しているとは言い難いことが判明したことなどを述べた。

 次に、佐賀県洋学者人名データベースを作成する意義について、佐賀県域で見いだされた186人でも、多くは事績が知られていない人々であるが、彼らの多くは、修学してきた学問をもとに、地域医療や地域産業、地域文化向上に尽くしてきた人であり、佐賀県洋学者人名データベースの蓄積と事績の解明が進むことで、佐賀の蘭学の地域特性、全体像が見えてくるとした。なお、幕末には、蘭学に加え、英学・仏学・独学なども入ってくるので、今回のデータベースは洋学者の語を用いるとした。

 選定すべき洋学者として、江戸時代初期から明治初年(明治4年廃藩置県まで)に、肥前(佐賀県域)出身者及び肥前に深い関係のあった、蘭学・英学等の西洋学術を学んだ人物に限定し、下記を調査することとした。

1)蘭人、西洋人及び彼らに直接学習した人・・伊東玄朴、相良知安、渋谷良次ら

2)蘭学塾を開いた蘭学者・医学校・好生館に学習した人・・上村春庵、大石良英ら

3)蘭学塾に学んだことが確かめられないが、蘭学関係著述を残したり、海外留学など、明らかに蘭学・洋学学習が認められる者・・佐野孺仙、島本良順、大庭雪斎、川崎道民ら

4)佐賀・佐賀藩に関係するお雇い外国人・西洋人・・・ポンペ、フルベッキら

5)県外出身洋学者でも佐賀の事件・事象に大きく関わった者・・田中久重、福谷啓吉ら

 以下、洋学者調査過程で判明したことを報告した。

1)伊東玄朴の蘭学塾象先堂の最初の入門者、上村春庵について、初代上村春庵が明和元年(1764)に長崎で蘭学を学んでいるという伝承が正しいとすれば、初代上村春庵は佐賀藩における初期西洋医学(紅毛流医学)修業者ということになること、

2)伊東玄朴門人の大石良英が、本木昌造の二男というのは誤りであること、

3)天保8年に武雄の中村涼庵が行ったという種痘は牛痘でなく人痘であろうこと、

4)洋書調所の教授手伝いになった小城の宮崎元立は、万延元年(1860)の遣米使節には随行していなかっただろうこと、

5)緒方洪庵の同門の大庭雪斎はシーボルトの門人という説があるが誤りであろうこと、なども紹介した。

 質疑において、幕末に輝いていた佐賀の医学がなぜ沈滞したのかという質問があり、その一因には、明治16年に佐賀医学校は、佐賀県の県費補助不足で甲種医学校を組織できず、医師養成ができなくなり、明治21年に医学校を廃止し、病院のみを継続(長崎医学校は甲種医学校として医師養成を継続)したことがあげられるだろうなどと述べた。