「佐賀学」創成プロジェクト第1回公開研究会 於、佐賀大学 平成20年7月11日
「鳥栖市への誘致企業の進出と活動−昭和30年代の動向を中心に−」
佐賀大学経済学部准教授 山本 長次
報告要旨
本報告は、昭和29年に市政を発足した佐賀県鳥栖市における、第1号から第3号までの誘致企業の進出の経緯と、その後の活動についての考察である。当時の市長は、故・海口守三氏(1901−2003、在職は昭和29〜40年)で、鳥栖市は佐賀県についで、県内の市町村として、最初の企業誘致関係の条例を市政発足時に制定し、精力的に企業誘致に取り組んだ。鳥栖市は九州における交通の要衝であるが、そのような利点と精力的な施策等により、市政発足時からの誘致企業数は、平成20年6月現在において159を数え、製造品出荷額についても県内で1位となっている。今日においても、鳥栖市に限らず、佐賀県全体として、企業誘致については課題となっていることから、誘致の過程、その後の企業活動、そして撤退の要因等を分析していくことを通じて、大きな示唆が得られると思われる。そして、このような検討結果から、「佐賀学」の一分野として、佐賀地域ならではの特色を見い出していくことも、プロジェクト内における目的となる。
さて、鳥栖市における誘致企業の第1号となったのは、旧日本エタニットパイプ(株)鳥栖工場(昭和33年2月操業開始)であった。この企業については、昭和6年に設立され、東証1部に上場していた大手企業で、主に水道に用いられる石綿(アスベスト)セメント管を製造した。ここでは、当社の進出の経緯とともに、市の関係職員や市長にも責任の追及が及んだ関連会社による贈収賄問題(昭和44年)、アスベストの使用制限にともなう昭和61年1月からの工場の別会社化と閉鎖、そして今日におけるアスベストにまつわる健康被害問題や投棄の問題などについて言及した。
続いて、第2号となったのは、旧オリエンタルコンクリート(株)鳥栖工場(昭和33年10月操業開始)で、この企業の事例についても、進出の経緯について触れるとともに、先の日本エタニットパイプとともに、誘致条例にもとづく奨励金の交付額(固定資産税の額を限度として3年間)と税収の関係についての分析をおこなった。
そして、第3号となったのは、旧大和ハウス工業(株)九州工場(昭和36年4月操業開始)で、
候補地の絞込みと鳥栖市への進出にいたる決定要因、企業側と佐賀県庁の進淳経済部長や海口市長との交渉内容などを詳述した。ちなみに敷地の総面積は10402坪であったが、そのうち半分ほどの5252坪を市が整地するとともに無償で提供した。その際、市の負担については1050万円程であったが、固定資産税など約200万円の税収が見込めると試算されたことから、概ね5年分ほどの税収で、市としても採算が合う計算となり得た。また、用地買収については、今後、先行取得の方針が打ち出され、工業団地が形成されていくことにもなるが、特にひどく難航した場面はなかった。その他、企業誘致の利点としては、地域産業の活性化とともに、雇用の確保などがあげられるが、特に雇用面については、用地を提供した関係者に手厚くすることが合意書の一事項ともなっていた。そして、海口市長については、日本開発銀行の太田利三郎総裁との間に強力なネットワークがあり、当行と地元金融機関による協調融資が、当社の工場建設に際してもまとめられた。その後、この工場については、昭和47年12月に福岡県鞍手町の福岡工場が操業を開始するにともなって、当社の生産拠点としての役割を終え、近年まで関係会社の大和工商リース(株)の鳥栖サービスセンターとして存在した。