「攘夷」決行と佐賀藩(1)                              伊藤 昭弘

 地域学歴史文化研究センターで、とある旧佐賀藩士宅の古文書を2回にわたって調査した。2回とも、所蔵者が提示された古文書十数点を拝見し、借用・撮影するというかたちを採った。所蔵者によれば、そのお宅は幕末期佐賀藩の勘定方役人を務めたとのことで、特に1回目の調査で拝見した古文書には、佐賀藩の特別会計資金の出納に関する内容が見受けられ、筆者にとっては非常に興味深いものであった。

 2回目の調査では、「箱に2箱ほど」あるという、江戸〜近代の書簡類のうち、「きれいな」十数点を拝見した(「」内は、所蔵者のお話)。その多くは挨拶状のようなもので、特筆すべきような内容は一見した限りでは見受けられなかったが、そのなかの一通の書簡に、筆者は注目した。

 それは、長崎の香焼島警備に従事していた藩士から、(恐らく佐賀の)父親に宛て、511日に出された書簡である。その中に、次のような記述がある。

 

…「当月」(5月)の10日までに「異船」(外国船)を「払攘」(追い払う)するとの命が届いたので、佐賀藩の長崎屋敷勤務の人びとにはその旨が伝えられ、「当嶋」(香焼島)にも通達が来るはずだった。しかし京都から飛脚が着き、いったい何を伝えてきたのであろうか、何の命令も来ない。どうやら攻撃は延期されたようだ…

 

 この書簡には年の記載は無いが、内容から文久3年(1863)と比定される。文久3510日は、幕府が天皇(朝廷)に約束した「攘夷」(外国(欧米)人を追い払う)決行の期限である。しかし実際に「攘夷」を決行したのは長州藩(現山口県)のみで、幕府・諸藩は何もしなかった。その後長州藩は、欧米各国から報復攻撃を受け、さらに会津藩・薩摩藩によって京都から追い出され、完全に「朝敵」となってしまう。

 筆者は幕末維新史を専門としていないが、この書簡に興味を持った。抽象的な表現だが、前線藩士たちの「攘夷」決行期限に直面した緊張感や、決行命令が出ず、肩すかしを喰らった感と、戦わずに済んだ安心感が入り混じった何とも言えない感情が、伝わってきたような気がしたからである。

 「攘夷」決行について、これまでの研究では、おおざっぱに言えば「実際に外国船を攻撃した長州藩だけが先走りした」、とされている(ただし最近の研究では、特に幕府について、「攘夷」をめぐる苦悩ぶりが明らかにされている)。この文脈でいえば、佐賀藩が「攘夷」を決行しなかったことについて、特に疑問を抱く必要はない。しかし上記の書簡を読むと、少なくとも前線の藩士たちにとって、「攘夷」決行は目の前に突きつけられた問題だったことがわかる。彼らは「攘夷」決行命令を待ち(もしくは、命令が来ないことを期待しながら)、期限の510日を迎えていた。

 書簡にあるとおり、「攘夷」命令は結局下されず、佐賀藩は外国船を攻撃しなかった。書簡では、京都からの「飛脚」が来てから空気が変わり、「攘夷」が延期されたとしているが、あくまでこれはいち藩士(それも、藩中枢の議論など知る由も無かったであろう)の解釈であり、実際に佐賀藩中枢がどのように判断し、「攘夷」を決行しなかったのか、について検討する必要がある。

                              (続)

 

「攘夷」期限直前の長崎の様子を伝える書簡。前から4行目に「異船拂攘」の文字がみえる。