「山本家日記」にみる江戸の人びとの暮らし(1)
地域学歴史文化研究センター 伊藤 昭弘
地域学歴史文化研究センターでは、佐賀県伊万里市立岩(伊万里市の西部、地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33.17.35.346&lon=129.49.59.744&sc=5&mode=map&type=scroll 参照)の山本進氏のお宅に伝来した近世〜近代の古文書約1万2千点を借用し、調査を進めている。「山本家文書」の全容はまだ明らかでないが、現段階の調査結果で特筆すべきは、江戸末期〜昭和初期にかけて記された日記の存在である。ここまで連続して残っている(山本家3代にわたって書かれている)事例は珍しく、当センターで、今後研究を進めなければならない。
まだ「研究成果」といえる段階ではないが、今後、この「佐賀の歴史散歩」において、日記(特に江戸時代)の内容を紹介し、当時の人びとの暮らしを探っていきたい。今回は、嘉永7年(安政元年、1854)の日記から、「又五郎滞在一件」をみていきたい。
「一件」の詳細は不明だが、又五郎なる人物が山代に転居し、その手続きのため山本源右衛門(日記の作者)たちが佐賀まで赴いた祭のてん末である。日記の別の箇所に、「森山村又五郎」なる記述があり、この一件の又五郎を指すとすると、高木郡森山村(現長崎県諫早市、当時は佐賀藩領)から山代郷への転居手続きを、城下町・佐賀で行ったことになるが、今のところ詳しくはわからない。
嘉永7年2月16日朝6ツ頃(当時の「一刻」は季節によって長さが変わるが、便宜的に「一刻」=現代の2時間と考え、6ツ=6時としたい)、源右衛門は病気の又五郎の代理順兵衛とともに立岩村の自宅を出て、まず里村(立岩村より東)の卯助宅へ向かった。そこで卯助と合流し、山代郷(「郷」は、複数の村を束ねる行政単位)の大庄屋宅に立ち寄った後、小田(現江北町)を経由して牛津(現小城市)に到着、笹屋に宿泊した。
翌17日朝6時に笹屋を発ち、8時には佐賀に入り、宿である「天延町桶屋清助」に着いた。嘉永7年の城下町・佐賀に住んでいた人びとの名前がわかる『佐嘉城下町竈帳』によれば、天祐寺町(現佐賀市、日新小学校の北側)に「桶結商売」の町人清助(50歳)が住んでおり、「天延町」は天祐寺町の誤記と考えられる。清助宅は、山代郷大庄屋の宿としても利用されており、その縁で、ここに宿を定めたと思われる。その後、一行は二手に分かれ、卯助は「魚町」の年行司(
町役人 追記参照)下役・永蔵宅へ向かった。「魚町」は、東魚町か西魚町か確認できない(「永蔵」も、確認できず)。又五郎の転居手続きの打ち合わせらしい。一方源右衛門と順兵衛は、「大神宮」(伊勢神社)や「日峯大明神」(松原神社)を巡り、家内安全などを祈願したのち、城下町・佐賀を「ハイクワイ(徘徊)」し、昼の12時に宿(清助宅)へ戻った。
14時、源右衛門は卯助の知り合いである高木町の万蔵(『竈帳』に記載あり)宅を訪れ、卯助と合流して酒を飲み、18時頃宿に戻った。同じ頃、順兵衛は永蔵とともに年行司を訪れ、持参した「肴」を進上している。ワイロとまではいかないが、公的手続きを依頼するときに役人に「手みやげ」を渡す慣習が定着していたのだろうか。ちなみに「肴」は源右衛門が用意した白魚を焚いたもの(佃煮のようなものか)と、卯助が準備した「モナゴヤ塩辛」などであった。
18日朝、卯助と順兵衛は年行司附役尾副川助十を訪れ、やはり「酒肴」を渡し、転居手続きについて相談した。宿に戻った二人から源右衛門が見せられた提出用の書類には、
・又五郎 38歳
・庄屋(綱五郎) 53歳
・組合村右衛門 40歳
・源右衛門 24歳
と既に書き込まれていた。どうやら、庄屋役は卯助が、又五郎役は順兵衛が担当し、村右衛門役は、たまたま佐賀に来ていた山代郷の忠太夫を雇い、年行司宅へ書類提出に向かう計画だったようである。史料をみている限りでは、正当な「代理」というよりは、こっそりと身代わりを立てた、という雰囲気である。そのためにも、「酒肴」が必要だったのかもしれない。なお村右衛門は実在しており、庄屋を務めたこともある有力者だった。
19日、年行司を訪れたが、年行司頭役が不在だったため、又五郎(役の順兵衛)と庄屋(役の卯助)を残し、源右衛門と忠太夫は先に佐賀を発った。その後牛津で合流し、一泊した。20日、忠太夫を含めた4人は大町(現大町町)まで同道し、そこで源右衛門・忠太夫と卯助・順兵衛の二手に別れ、源右衛門一行は須古(現白石町)に泊まった。21日には龍王峠を越えて百貫より鹿島(現鹿島市)に入り、祐徳稲荷を詣で、武雄に泊まって22日に自宅に戻った。ちなみに武雄では、「筑前様」(福岡藩黒田家)の一行に遭遇している。長崎へ向かっていたか、その帰りであろう。
以上が、「又五郎滞在一件」の顛末である。この場合には、転居手続きのために転居人・庄屋・組合(住民代表)らが城下町・佐賀まで赴き、書類を提出する必要があったようで(これが、当時の佐賀における全ての転居手続きに該当するかはわからない)、人の移動には非常にナーバスだったようである。しかし手続きの実態としては、源右衛門(彼はどんな立場で手続きに参加したのかわからない。組合の一人としてだろうか)以外は全て身代わりで済ませていた。表向きの厳密さと、現実のあいまいさ。大げさかもしれないが、ある意味、江戸時代を象徴する出来事かもしない。
(2007年12月13日追記)
当初、年行司を町役人と説明していたが、これは確固とした根拠に基づかず、例えば博多の町役人が「年行司」と呼ばれていたことなど、他地域の例をもとにしていた。しかし『鳥栖市史資料編第3集 佐賀藩法令・佐賀藩地方文書』に収録された「治茂公御改正御書付」の「年行司勤方書付」に拠れば、年行司は、@佐賀藩領内全域の領民が他領へ出向いたり、他領の者が領内に入った場合など、人の出入りの確認、A領内全域の戸籍(「竈帳」など)の集積・管理、を主な職務としていたようである。そのため今回取り上げた「又五郎滞在一件」について、山本源右衛門たちは佐賀城下まで赴き、年行司に報告したのである。
ただ、転居など人の移動全てについて、このように逐次年行司へ報告する必要があったのか、という点については留保しておきたい。筆者は今のところ、又五郎は転居以前、佐賀藩重臣諫早氏の領地森山村に住んでいたことから、家臣の領地と藩の領地との転出入について、年行司に報告する必要があったのでは、と想定している。何れにしろ、今後の検討課題としたい。