「山本家日記」にみる江戸の人びとの暮らし(1)

               地域学歴史文化研究センター  伊藤 昭弘


 まず、前回記事の訂正から始めたい。日記の作者を「山本源右衛門」としていたが、正確には「山本卯之吉」であった。卯之吉は吉田家より養子として山本家に入り、その後家督を相続して「源右衛門」を名乗るようになるが、前回記事で取り上げた嘉永7年(安政元年)の段階では、「源右衛門」はまだ卯之吉の義父が名乗っており、卯之吉は卯之吉のままだったようである。これは、安政2年「源右衛門」は伊勢参りの旅に出るが、日記の作者はそのまま立岩村に留まって記述をしていること(=旅に出た源右衛門と日記の作者は別人)や、安政3年の種痘の記事(注)などから判明した。

 ただ、「又五郎滞在一件」において、卯之吉たちが佐賀藩年行司へ提出した書類には「源右衛門 廿四才」と記しており、この場合は年齢からみて「源右衛門」=卯之吉である。今後さらに検討する必要があるが、例えば山本家の当主・代表として振る舞う際は、卯之吉は「源右衛門」を名乗ったものの、戸籍など基本的なところではあくまで「源右衛門」は卯之吉の義父だった、ということだろうか。今後、日記の作者は「卯之吉」として稿をすすめていきたい。


(注)詳しくは、『地域学歴史文化研究センター研究紀要』第1号の青木歳幸論文を参照されたい。


 今回は、安政3年日記より、大宰府天満宮参詣の旅を紹介したい。6月20日暁、卯之吉ほか10名は浦ノ崎(現伊万里市浦ノ崎)より乗船し、伊万里湾を渡って唐津藩領干潟(現伊万里市黒川町)に上陸、鏡神社(現唐津市鏡)に参詣したのち、浜崎(現唐津市浜玉町浜崎)に午後4時頃到着し、一泊した。21日は、深夜2時に宿を発ち、夕方4時頃に福岡城下の西町(現福岡市、唐人町と西新のあいだ)に到着、翌22日いよいよ太宰府に向かい正午過ぎに着き、早速天満宮を詣でたほか、芝居見物などを楽しみ、裏町の富屋に泊まった。

 23日は太宰府を発ち、「産八幡」を参詣したのち、香椎宮、名島弁財天、筥崎宮(何れも現福岡市東区)と立ち寄り、博多にて一泊。翌24日は桜井神社(現福岡県志摩町)を詣で、そこで一泊した。25日暁より野北(現福岡県志摩町)に向かい、そこで船に乗って「大戸社岩穴」を詣でた。日本三大玄武洞のひとつである「芥屋の大門」のことであろう。その後芥屋より上陸、深江(現福岡県二丈町)より「本通り」(唐津街道のことか)に入り、浜崎まで到着、そこで再び一泊した。26日は朝4時に出発し、虹の松原を眺めつつ唐津城下に入り、そこで山代から出迎えに来ていた人びとと合流、10時頃城下を発し、杉浦(現唐津市肥前町杉野浦か)にて乗船、浦ノ崎まで戻った。

 以上、7日間の旅であった。現代であれば、山代から太宰府まで車で高速を利用して2時間、といったところだろうか。桜井神社や「芥屋の大門」見物を含めても、1泊2日あれば充分であろう。また、合計何キロ歩いたことになるのだろうか。むろん江戸時代徒歩での旅は人びとにとって当然のことであるが、筆者は初日であきらめそうである。

 江戸時代は、「お伊勢参り」に代表されるような、〈観光〉が娯楽として庶民まで定着した時代である。今後も山本家日記に旅の記録があれば、紹介していきたい。