「山本家日記」にみる江戸の人びとの暮らし(3)


               地域学歴史文化研究センター  伊藤 昭弘


 「山本家日記」の筆者山本卯之吉は、管見の限り藩政期には庄屋などの村役人に就任した形跡は無い。しかし彼は、さまざまな村の行政業務に関わっており、いくつか例を挙げたい。

(1)嘉永7年8月2日、久原村にあった代官所より立岩村庄屋のもとへ、竈帳(住民台帳)の下書きを作成するよう指示がきた。翌日より卯之吉は、宝性院なる人物とともに庄屋の元でその作成に着手し、5日朝に完成した。7日には庄屋とともに代官所を訪れたが、代官嬉野又兵衛と目付西野兵右衛門はともに留守だったため、目代留主五郎右衛門宅に寄って「内覧」を依頼して帰宅した。10日、再び庄屋とともに代官所を訪れ、竈帳の記載について細かな指示を受けている。

(2)12月9日、立岩村の「割方」を算出し、「村舟料」として合計米53石余を村人から徴収することとなった。しかし16日、村人たちは徴収額が多いとして庄屋宅に詰めかけ、村中「騒立」という事態になった。そのため卯之吉と宝性院は村人たちの説得に努めた。

 このように、村の基本台帳である竈帳や村入用の算出・割付といった重要業務に卯之吉は関わっていた。がんらい立岩村には、庄屋・横目・散使の3人の村役人がいたが、前述のように卯之吉はこれらの職に就いていない。

 卯之吉は公的な肩書きを持たなかったが、立岩村の行政にとって欠かせない人物だった。そのため廃藩置県直後の明治4年11月、小城県(旧小城藩)は卯之吉(当時は源左衛門)を「村役」に任命し、藩政期の庄屋以下の村役人は全て廃止された。その後小城県が伊万里県(のち佐賀県)に合併されると、改めて源左衛門は立岩村庄屋に任命されている。

 卯之吉は立岩村において、どのような存在だったのだろうか。彼は山本家の養子として家業(酒造業など)をこなしつつ、村の行政にも関わっていた。彼についてより詳しく検討すれば、小城藩−佐賀藩農村における行政組織・業務の実態を探る手がかりが得られるかもしれない。